引き揚げ船 意味
例文
- その傍ら1957年に東洋郵船を創業、グループの総帥として大陸からの引き揚げ船だった興安丸を購入してクルーズ事業に乗り出した。
- そのような中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。
- 1945年8月-留萌沖で樺太からの引き揚げ船(小笠原丸、泰東丸、第二新興丸)に対し無差別攻撃(雷撃及び砲撃)したソ連軍のL-19がこの近海で沈没している。
- 1945年8月22日:樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」・「第二新興丸」・「泰東丸」が停船命令に従わず、ソ連潜水艦(L-12、L-19)の雷撃・砲撃を受け大破・沈没。
- そのため、必要な艦船、職員をそのまま保有し、日本海軍の残存艦船は、復員船・引き揚げ船(特別輸送艦船)として各地と日本の間を往復したほか、航路啓開のため日本近海の掃海作業に当った。
- 戦後は輸送力を活かして帰国者の引き揚げ船や国内航路にも充当されたが、戦後間もない時期に運航可能な貴重な大型船であったため、1950年以降は船齢20年を超えるベテラン船でありながら日本郵船の国際航路に復帰した。
- 興安丸(こうあんまる Kouan maru)は鉄道省が関釜連絡船の金剛丸型の第2船として建造し、第二次世界大戦前から戦後高度成長期にかけて関釜連絡船、引き揚げ船、イスラム教巡礼船として使用された昭和を代表する船。
- この潜水艦は、その後、引き揚げ船として利用されていた特設砲艦の第二新興丸に雷撃を加え400名近くを殺傷するが、機関砲と甲板砲で反撃されて損傷、その後樺太留多加郡能登呂村の二丈岩近海で沈没している(アメリカは機雷で沈没と発表)。
- 1953年~1957年には政府の傭船により中国河北省秦皇島-舞鶴間、ソビエト連邦(現ロシア)ナホトカ・ホルムスク-舞鶴の引き揚げ船として日本赤十字社の救護班を乗せて延べ22回の活躍し、舞鶴港の「岸壁の母」の悲話で国民の胸を打った。