朱筆の例文
- ほぼ全帖にわたって墨筆?朱筆?貼り紙による訂正?見せ消ちなどの多数の書き入れがある。
- 中央図書館所蔵本(巻6,9,13,19)は校正本であり、漢字音の表記を中心に朱筆で誤謬が校正されている。
- 詳定官の初稿は、1458年閏2月に提出され、世祖自身の朱筆を経て、最初に「戸典」が1460年7月に完成頒布された。
- 組版指定や修正指示においては、朱筆によって『ゴ』あるい『ゴチ』とだけ記入すれば、当該箇所をゴシック体にする、という意味になる。
- また、壬申戸籍の族称欄の記載が、たとえ「平民」であっても、寺社名欄の記載が朱筆された「穢寺」であるかないかによって、「旧穢多」身分であることが分かってしまった。
- 奥書の朱筆によれば、吉川元春が第1冊を永禄6年(1563年)12月に筆を下し、その後各巻の書写を行って、永禄8年(1565年)7月に第39冊の書写を完成したとしている。
- 徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、大阪からの船旅の中、清正のペットの猿が真似をして彼の論語の本に朱筆で落書きをしたのを見て「お前も聖人の教えが知りたいか」と嘆じたという。
- 一方、手抄本のほとんどがすべて「脂硯斎重評石頭記」と題しており、それぞれ朱筆あるいは墨で本文の上や行間や脇に「脂硯斎」をはじめとする評論家による評論文字を書き足している。
- 当時の次長だった嶋田繁太郎は遠慮なく朱筆を入れてリジェクトしたが、近藤はまた目を通さず課長に再考を促すだけで、課長からは案を却下した嶋田ではなく、指導力のない近藤に批判の目が向けられた。
- ただし売買価格に増減があれば、地券の裏側に朱筆でその旨を記載するものとする(1874年5月12日の太政官布告第53条により追加、朱筆規定は1879年2月27日の太政官布告第10条で削除)。
- ただし売買価格に増減があれば、地券の裏側に朱筆でその旨を記載するものとする(1874年5月12日の太政官布告第53条により追加、朱筆規定は1879年2月27日の太政官布告第10条で削除)。
- ^ 金子『鴎外と〈女性〉』では、平塚らいてうの回想文を引用し、平塚の手紙をたずさえた市川房枝が賛助員になってもらうために森鴎外を訪ねたところ、鴎外が趣意書から規約までの諸草案を丹念に読んで朱筆を加えたことや当時の平塚と市川の関係などが紹介されている。
- 『源氏物語大成』の底本としての大島本についても、大島本という写本が、当初書かれた本文に対して時代の異なる、おそらく最初に書写されてよりあまり間をおかない時期から、おそらくは江戸時代末期ころまでの期間にわたる複数人によると見られる多くの墨筆?朱筆による書入れ?ミセケチ等が行われており、当初書かれた本文が比較的藤原定家の本文をよく保存しているよい青表紙本系統の本文であると考えられる(但し一部に独自の異文も見られる。