とくがわ-いえなり 意味
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意味
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- トクガハイヘナリ
【徳川家斉】
(1773-1841) 江戸幕府第一一代将軍(1787-1837)。一橋治斉の長男。家治の養子。幼名豊千代。田沼意次を排して,松平定信を老中主座とし,学問を奨励,寛政の改革を行わせた。定信失脚後家斉親政になると,幕政はゆるみ,爛熟した化政文化が現出。隠居後も大御所と称して実権を握った。側室四〇人,子女五五人を数えた。
- とくがわいえなり 【徳川家斉】 (1773-1841) 江戸幕府第一一代将軍(1787-1837)。一橋治斉の長男。家治の養子。幼名豊千代。田沼意次を排して,松平定信を老中主座とし,学問を奨励,寛政の改革を行わせた。定信失脚後家斉親政になると,幕政はゆるみ,爛熟した化政文化が現出。隠居後も大御所と称して実権を握った。側室四〇人,子女五五人を数えた。
- とくがわいえさだ 【徳川家定】 (1824-1858) 江戸幕府第一三代将軍(1853-1858)。家慶の四男。幼名政之助。ペリー来航による日米和親条約の締結を行う。子がなかったため,将軍継嗣問題を起こして幕末政争の因を作った。
- とくがわいえしげ 【徳川家重】 (1711-1761) 江戸幕府第九代将軍(1745-1760)。吉宗の長男。幼名長福。身体虚弱で酒色に溺れたという。
- とくがわいえつな 【徳川家綱】 (1641-1680) 江戸幕府第四代将軍(1651-1680)。家光の長男。幼名竹千代。保科正之・酒井忠清が補佐した。
- とくがわいえのぶ 【徳川家宣】 (1662-1712) 江戸幕府第六代将軍(1709-1712)。甲府藩主徳川綱重の長男。綱吉の養子。幼名虎松。側用人,間部詮房(マナベアキフサ)を老中とし,新井白石を登用して正徳の治を行なった。
- とくがわいえみつ 【徳川家光】 (1604-1651) 江戸幕府第三代将軍(1623-1651)。秀忠の二男。幼名竹千代。諸法度の制定,参勤交代など諸制度を整備,キリシタンを弾圧して鎖国を断行,以後二百年余にわたる幕府の支配体制を確立した。
- とくがわいえもち 【徳川家茂】 (1846-1866) 江戸幕府第一四代将軍(1858-1866)。紀州藩主徳川斉順の長男。幼名菊千代。紀州藩主時代の名は慶福(ヨシトミ)。井伊直弼(ナオスケ)に擁立され,皇女和宮を迎えて公武合体策を推進。第二次長州征伐出陣中大坂城で病死。
- とくがわいえやす 【徳川家康】 (1542-1616) 江戸幕府初代将軍(1603-1605)。三河岡崎城主松平広忠の長男。幼名竹千代,のち元信,元康,家康と改めた。はじめ今川義元,のち織田信長と結び東海に勢力を拡大,信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力,関八州を与えられ,1590年江戸入府。関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり,江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所として実
- とくがわいえよし 【徳川家慶】 (1793-1853) 江戸幕府第一二代将軍(1837-1853)。家斉の二男。幼名敏次郎。はじめ家斉が大御所として実権を握っていたが,その死後水野忠邦を登用して天保の改革を行わせた。1853年ペリー来航直後に病没。
- とくがわ-いえさだ トクガハイヘサダ 【徳川家定】 (1824-1858) 江戸幕府第一三代将軍(1853-1858)。家慶の四男。幼名政之助。ペリー来航による日米和親条約の締結を行う。子がなかったため,将軍継嗣問題を起こして幕末政争の因を作った。
- とくがわ-いえしげ トクガハイヘシゲ 【徳川家重】 (1711-1761) 江戸幕府第九代将軍(1745-1760)。吉宗の長男。幼名長福。身体虚弱で酒色に溺れたという。