河井荃廬 意味
- かわい-せんろカハヰ―
【河井荃廬】
(1872-1945) 篆刻家。本名仙郎。蟫巣(タンソウ)・九節大人とも号す。中国文人と交流し金石学・文字学に精通。中国文物の鑑識に長じ,その招来に尽力した。その印は彼の学問とともに書壇や印壇に大きな影響を与えた。
- 河井 かわい 姓氏の一。
- 河井流 かわいりゅう 水泳術の一派。八幡流水泳術(河井家の家伝)一二代目の河井半兵衛幸篤が創始したもの。 〔「河合流」とも書く〕
- 河井道 かわいみち (1877-1953) 教育者。三重県生まれ。女子英学塾(現津田塾大)教授。日本 YWCA 創立に尽力。のち,キリスト教に基づく平和教育をめざして恵泉女学園を設立。
- 河井寛次郎 かわいかんじろう (1890-1966) 陶芸家。島根県生まれ。京都五条に鐘渓窯を築き陶芸に従事。柳宗悦・浜田庄司らの民芸運動に参加し,素朴で重厚な作品を残す。
- 河井継之助 かわいつぐのすけ (1827-1868) 幕末の長岡藩家老。名は秋義。号は蒼竜窟。佐久間象山・古賀謹堂に学び,開国論を唱える。戊辰戦争では中立をはかったが,官軍が認めず,長岡城の激戦で重傷を負い,死亡。
- 河伯 かはく ◎① (1)川を守る神。川の神。 (2)河童(カツパ)。
- 河上肇 かわかみはじめ (1879-1946) 経済学者。山口県生まれ。京大教授。人道主義を経て,マルクス主義経済学の研究と無産運動に従事。1928年(昭和3)京大を追われ,労農党を結成。のち共産党に入党,投獄された。著「貧乏物語」「資本論入門」「自叙伝」など。
- 河内 かわち (1)旧国名の一。大阪府南東部に相当。五畿内の一。河州(カシユウ)。 (2)栃木県中央部,河内郡の町。宇都宮市の北に接し,住宅地化・工業地化が進む。
例文
- 門弟に河井荃廬・章石兄弟が育っている。
- 河井荃廬-明治から昭和の篆刻家。
- 兄の河井荃廬と同じく篠田芥津について篆刻を学ぶ。
- このとき河井荃廬の紹介で呉昌碩に篆刻や画を学ぶ。
- 篆刻家の河井荃廬は彼を敬慕してついに西泠印社に入社した。
- 明治40年には河井荃廬・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・山田寒山らと丁未印社を結ぶ。
- なおこの際には国内だけでなく日本からの参加もあり、河井荃廬・長尾雨山の2人が参加している。
- 明治40年には河井荃廬、浜村蔵六、岡本椿所、山田寒山らと丁未印社を創立し篆刻の発展に尽した。
- 小曽根乾堂・篠田芥津・円山大迂・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・桑名鉄城・河井荃廬などが挙げられる。
- 明治40年(1907年)に河井荃廬をはじめ初世中村蘭台・五世浜村蔵六・岡本椿所らと丁未印社を結成。